2021年12月12日(日)、小川隆が第42期順位戦A級戦で優勝し、第31期(2010年)以来11年ぶり2回目の名翔位に輝いた。5月に行われた開幕節の初日に4戦4勝というこれ以上ない好発進を果たして以来、途中で愛澤圭次・西尾剛に首位の座を譲ることはあったものの、27回戦でその座を奪回してからは最後までこれを守り抜き、そのままゴールテープを切った。
 成績は35戦11勝4敗の7昇。昨期でA級在位連続15期の小川だが、7昇は本人のA級戦における過去最多昇であり、一方でラス4回は逆に最少。順位戦通算ラス率20.44%という現役選手中最低値を誇る小川らしい見事な名翔位戴冠であった。

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 皆さん、ご無沙汰しております。かつて平成時代に『101マガジン』誌上において、101公式戦のさまざまな記録やデータ類をご紹介しながら、数字で101の楽しさや魅力や厳しさ、またたくさんの選手の偉業や業績などをご披露する連載企画「こちら記録室です」を担当させていただいていた記録小僧です。
 今回の小川名翔位の誕生を記念してこのたび久々に筆を執ろうと思い立ち、今こうして彼の残してきた数々のデータ等を前にしながらキーボードを叩いている次第です。いわば「帰ってきた記録小僧・令和版」といった趣とでも申しましょうか。
 読者諸兄も彼の優勝を称えながら、ぜひとも筆者と一緒になって新名翔位のこれまでの功績や足跡をじっくりと振り返っていただければ幸甚です。

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 小川隆が101競技連盟に新規加入して順位戦C級戦デビューを果たしたのは第17期(1996年)のことであった。当時、小川は34歳。今でこそけっこう年カサになってから順位戦選手になる向きも多くなってきたが、まだ当時は新規入会者には20代の者が多く、小川もルーキーながら年齢的にはすでに中堅クラスだったように記憶している。
 同期入会は他に4名いたが、いずれもすでに退会してもう当連盟にはいない。

 筆者が小川との邂逅を果たしたのはこれに遡る3年前、筆者が順位戦入り3年目の1993年秋のことであった。場所は大阪で行われた「支部対抗戦」の会場で、この2年ほど前からマージャン101名古屋支部で101競技を嗜み始めていた小川は、後に当連盟に入会する際の推薦人でもある小林一雄氏の主催したこの対抗戦に支部の選手として参加。ここで対抗戦の運営を手伝っていた筆者は、初めて小川と出会ったのだった。あれからおよそ30年、何とも懐かしい思い出である。

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 さて、記念すべき順位戦参加の初年度、小川はC級戦の開幕直後からいきなり21戦4トップでノンラスと快走する。26回戦終了時には15名中2位と順位を上げ、1年目で昇級(上位2名がB級2組に昇級)かと期待を持たせたが、その後急失速。結局最後の4戦で3ラスを喫し、最終的に32戦5勝5敗の±0の10位という、いたって凡庸なスコアに終わった。
 ここから、小川の苦闘が始まる。
 【表A】をご覧になればおわかりのとおり、その後3年間の小川のスコアは決して芳しくなく、第19期(1998年)などは13名中10位に沈んだため、その期のC級選手の下位4分の1につく降級点を食らったほどである。
 翌年の第20期(1999年)もマイナスに終わるが、さらにその翌期(2000年)、ようやく小川に反撃の機会が訪れた。
 この年の小川は初節から、派手さはないものの安定した成績を残し続け、23回戦終了時には10名中2位と昇級ポジションに浮上、残り2戦となる38回戦までこれをキープする。が、39回戦のラスが響いて3位の選手に抜かれ、初年度同様最後の最後にコケて土壇場で昇級を逃してしまう。

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 順位戦入り以来ここまで5期続けてC級から抜け出せず生涯昇も△3と、今や成岡明彦に次ぐ66昇を誇る小川のものとは思えないここまでの戦績。中でも何より目立つのが、5期消化時点でのトップ率の低さであろう。ここまで160戦トップ33回でトップ率20.63%はやはりいかにも低く、その時点でのラス率22.50%はともかく、これが小川の課題であったことは恐らく当時の本人が最も痛感していたことであったのは想像に難くない。
 とにかくトップを数多く獲らねば、順位戦での昇級は叶わない。これは、たとえ一般の得点マージャンではない101競技であっても例外ではなく、いわばリーグ戦の真理であると言えよう。

 そんな小川が一気に弾けたのが、21世紀を迎えた翌2001年の第22期のことであった。
 この期の小川は、選手登録人数の関係でC級1位にランキング。開幕戦はラススタートとなったものの、第2・3節の16戦で7トップという荒稼ぎを見せる。最終第4節も無難にスコアをまとめ、9昇の首位に次ぐ12勝4敗で8昇の2位。次位の選手に3昇差をつける堂々の昇級だった。
 この時点で生涯昇も5昇とプラスに転じ、これまでの5年間の鬱憤を晴らすかのような躍進で、ミレニアム小川は6年目にしてようやくB級2組への昇級を決めたのだった。

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 翌期(2002年)、不惑を迎えた小川のB級2組1年目の挑戦は、9名中幕尻で始まった。第2節までは一進一退のスコアで推移していたが、第3節で4勝1敗の好成績を挙げ、一時は昇級ポジションに浮上するなど健闘。が、逆に第4節でトップなしの4ラスを食らってはここまで。最終節で意地を見せるも、順位を4位から1つ上げるのが精一杯で、2期連続の昇級は叶わなかった。
 翌年の第24期(2003年)B級2組の昇級争いは、終盤にきて苛烈を極める。最終節開始時点で小川は4昇で3位。が、自身はスコアを落とすことはなかったが、結果的に2位の選手の逃げ切りを許してしまう。また、最終節開始時に5位だった選手が終了時には首位まで突き抜ける一方で、同じく開始時の首位が最後は3位まで転落するという大逆転の余波もあり、小川自身も4位で閉幕を迎えた。

 それでも、これで4期連続プラス昇をマークした小川の生涯成績は、これまでとは見違えるようなものになっていた。
 この期終了時点で通算268戦68勝56敗の12昇。かつて課題であったトップ率は25%を超え、対してラス率は下がる一方でいよいよ21%を切るなど、現在の小川を彷彿させる数字になりつつあった。

 ところで、この成績向上の大きなきっかけとなったのが、現在101競技連盟のシニアディレクターを務める青野滋が当時行っていた研究会への参加であろう。
 第21期順位戦(2000年)をもって現役を引退して101競技連盟の理事長に就任していた青野は、翌年より後進の育成のために名古屋市内で研究会を主宰。愛知県在住の小川は、名古屋が本拠地ということもあって積極的にこれに参加していた。小川自身、「自分にとってとてもためになる内容だった。非常にありがたかった」と当時を振り返って回顧するように、ここでの鍛錬が小川の成績アップの契機や一助になったことは間違いないだろう。
 なお、小川は現在も毎週のように上京しては、仲間や後輩らとともに研究会を開催しているが、この熱心さは当時の経験を踏まえての活動であることに異論はなかろう。周囲からの信望も厚く、実に頭の下がる思いである。

 閑話休題。
 迎えた第25期順位戦B級2組(2004年)、小川は15勝5敗の10昇という文句のつけようのない成績でB級1組への首位昇級を果たした。
 この年のB級2組は9人制で行われ、1名あたりの対局数は40戦。2021年現在、過去にクラスを問わず9人制で行われた順位戦の年間最多トップ数は16(過去4名が達成)、小川の15(こちらも小川含め4名が達成)は、それに次ぐ数字である。
 参考までに、小川のラス5回というのはこの8名のうちで最少であることも記しておきたい(8人制・10人制を含めた場合の最優秀成績は、1993年の第14期A級戦で菊池俊幸=名誉会員=がマークした35戦16勝4敗)。

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 順位戦入り10年目でB級1組まで昇級してきた小川。ところが、その記念すべき期に、小川はよもやの憂き目に遭うことになる。
 第26期B級1組(2005年)は10名で構成され、小川は7位にランキング。その初戦をトップで飾り幸先のよいスタートを切ったに見えた小川が、その直後から何と4連敗を喫し、第1節終了時で△3の9位に沈む。
 この開幕節の負債が尾を引くものの、その後何とか態勢を整えた小川は26回戦でようやくスコアをイーブンに戻し、最終節も残り2戦となった42回戦終了時には△1の6位と、残留は目前かに見えた。
 が、ここで小川は残留争いのライバル選手との直接対決で痛恨の連敗。期首順位の関係でアタマハネを食らい、△3の9位で降級となってしまった。
 このように、年度の終盤にきてスコアを落としてしまうことが、ここまでにも何度かご紹介してきたように、小川には散見された。そして、これが当時の小川のウィークポイントでもあった。

 失意のまま迎えた第27期(2006年)、小川に思わぬ朗報がもたらされた。B級1組に残留した選手のうち1名が退会したため、降級者2名のうち上位だった小川の繰り上がり残留が決まったのである。
 この望外の幸運が効いたのか、この期の小川は開幕直後から終始好調を維持。年度の折り返し地点となる第3節の23回戦までノンラスで昇級ポジションをキープし続け、昇級争いは最終戦までもつれるも、猛追する選手を自ら撥ねつけた。最終的に小川は9勝4敗という小川らしい手堅いスコアで2位を堅持し、ついに小川はA級昇級をその手にしたのである。
 参考までに、この期を最後に小川がA級以外のクラスに所属したことはない。要するに、その後一度も降級することなく今に至るのである。
 現在A級に君臨している成岡や愛澤圭次・田中実・西尾剛をはじめ、金子正輝(名誉会員)・青野・菊池・伊藤英一郎(故人)・岩本光明・萱場貞二・僧根幸男・堀川隆司(いずれも退会)らといった歴代名翔位の名だたる実力派ですらA級陥落を経験していることを思うと、これはとてつもない偉業だと言えるのではないだろうか。
 なお、この期に小川は通算100勝をマークしている(ここまでの通算成績は382戦100勝76敗の24昇)。

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 第28期(2007年)、小川の晴れのA級昇級初年度は幸先よくトップで始まった。当初は、極度の緊張のせいかヤマを積む際におぼつかなさを見せたりもしていたが、対局をこなしていくにつれてそれもなくなり、年間を通して3位から5位の間を行き来するなど健闘。最終的には36戦9勝6敗の3昇で10名中4位と、A級デビューの期としては上々の成績を収めた。
 なお、詳細は後述するが、この期以降小川が15年間のA級選手人生において年間成績がマイナスで終わったのは、第38期(2017年)の△1が唯一の例というのだから恐れ入るしかない。

 第29期(2008年)の小川は開幕直後から不調に襲われ、第2節終了時点で△3の10名中最下位。が、夏以降徐々にスコアを回復させ、第3節途中で降級ポジションからの脱出に成功。特に第4節以降ラスは1回のみなど、最終的には36戦9勝7敗の2昇で、順位も3位と奮闘する。
 第30期(2009年)も、27回戦終了時には3昇で2位と相変わらずの堅実ぶりを発揮。ただ、その後さらにスコアを4昇まで伸ばすものの、最終節で痛恨の4連敗を喫するという、かつてを思い起こすような失速を見せたのは残念であった。
 結局、この期の小川は35戦9勝9敗で±0の5位。それでもこの時点での通算成績は489戦127勝98敗で29勝。3期連続でA級に在位、今や小川はA級選手の常連の仲間入りとなりつつあった。
 そして、そんな小川がついに初タイトルを手にする日がやってきた。

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 迎えた第31期(2010年)は、その5年前に優勝を果たしていた涌田悟(退会、後に第38期八翔位)がヨーイドンから独走。第3節19回戦終了時点で6昇をマークし、次位に3昇差をつける。一方の小川は、この時点で順位こそ3位につけていたが、スコアがまだ1昇では遠く涌田には及ばない。第4節開始時点でも未だに小川は1昇にとどまっていた。
 ところが、ここから首位の涌田が見る見る間にスコアを落としていくのを尻目に、小川はプラスを重ね始める。その後小川は第5節を無難にまとめ、3昇の首位で最終第6節を迎えることになった。
 涌田予想外の失速の影響で名翔位レースは混沌となっており、開始時の成績は首位のD小川3昇以下、B堀川C安川秀樹(退会)E涌田の3名が2昇で並びF愛澤が1昇で続くという大混戦(丸囲み数字は期首順位)。この期は変則日程で行われたため、最終節は1名あたり6戦。小川はこの剣が峰を2勝1敗とし、最終45回戦はもしラスをひけば、同昇ながら期首順位の関係で最後の最後で首位陥落となるピンチもバーで切り抜けてみせた。
 こうしてついに小川は、順位戦入り15年、A級4期目にして初の名翔位に輝くという栄誉を手にした。成績は36戦12勝8敗の4昇。3昇の安川が2位、2昇の堀川・愛澤が3・4位という稀に見る僅差だった。
 なお、名翔位のスコアが4昇という例はそれまでに1回、その後も2回しかない最少タイ記録。いかにこの期のA級戦が苛烈で激戦だったかを表している。

 小川のここまでの生涯成績は、525戦139勝106敗の33昇。生涯昇は30を超え、名実ともに101競技連盟を代表する選手の1人になったと言っても過言ではなかろう。その小川が、まさにそれに相応しいとてつもない大記録を打ち立てるのはこの5年後のことだが、それについてはこのあと詳しくご紹介しよう。

 今度はA級選手の猛者たちの挑戦を受ける側になった翌期以降の小川だが、第32期(2011年)は、一時は△5までスコアを落として第3節終了時点では最下位に落ちるなど中盤まで不振に苦しむ。が、ここから小川が終盤にかけて怒涛の追い上げを見せた。
 まず、次節初戦で降級ポジションからの脱出に成功すると、第5節はラスなしの3勝で一気にスコアをイーブンに戻す。最終第6節開始時点で先頭集団は4昇3名、3昇1名で構成されていたため首位を窺うにはやや遠かったが、小川はここから奮起。さらにスコアを伸ばして小川は残り2戦となった43回戦終了時点で2昇、順位こそ5位だったものの、何しろ期首順位は最上位。その時点で実に4名が4昇で並んでいたが、小川がここから連勝できればあるいは、というところまで来ていた。
 残念ながら次戦でラスをひいて連覇の夢は露と消えたが、この追い上げには「さすがは名翔位」と唸らされるものがあった。
 続く第33・34期(2012・2013年)、小川は2年続けて残り1戦の時点で首位に立っていたが、前者は成岡、後者は田中にいずれも逆転を許してしまい、2期連続して優勝目前で涙を呑むという悔しい思いもした。

 さてその2013年、小川に2つ目の輝かしい勲章がもたらされた。第30期八翔位獲得がそれである。

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 小川が初めて八翔位決定戦【八翔位決定戦 出場者表(第17期以降)】に進出したのは、八翔位戦が現システムになって2年目の第18期(2001年)、順位戦選手として5年目のことだった。当時まだC級選手だった小川は1次予選から出場、予選を順調に勝ち上がって準決勝も大逆転の末に勝ち抜き、旧システム時代も含めて初めて決定戦にコマを進めた。長い101ファンの方なら今もよく憶えておられるに違いない、有馬理(退会)が絶体絶命の大ピンチから田地裕(退会)を延長15戦の末に大逆転したあの死闘である。
 が、小川はこの決定戦で何とついに15戦ノートップの△4。緒戦から一向にエンジンがかからず、もう一人の対局者だった堀川と連携しながら、最後まで優勝を争った有馬と田地のいずれかによる決着を阻止するためだけに苦闘するしかなかったとのいうのが偽らざる実情であった。
 小川2回目の決定戦進出は第26期(2009年)のこと。この時すでにA級選手となっていた小川は3次予選シードとなってこれを通過。準決勝も勝ち上がって優出を決め、8年前のリベンジが期待された。
 小川は、初戦で自身にとっての決定戦初星を挙げるものの、それ以降は◎も●も多いという小川にしては珍しい内容の星取りで、どうしても主導権を掴めない。結局、開戦以来ずっと雌伏していた成岡に終盤一気にスパークされ、そのまま優勝をさらわれたのだった。

 このように、過去2回はほぼ見せ場なく不完全燃焼に終わっていた小川の決定戦だが、その4年後の第30期(2013年)、小川は3度目の決定戦進出を果たす。挑戦相手は前人未到の八翔位戦3連覇中の井戸田耕二(大阪支部)、あと2人の挑戦者は田中実・田村洸(麻将連合、当時は日本プロ麻雀協会所属)であった。
 ここで「三度目の正直」を目指す小川は、規定の10回戦を迎えて2昇と決着権を握ってこれに臨むも、ここで痛恨のラス。それでも小川は、ただ一人決着権を維持したまま延長戦に突入し、12回戦でトップを獲って初優勝。こうして小川は2つ目のタイトルとなる八翔位を獲得した。名翔位と八翔位という両タイトルを手にしたのは小川が史上8人目という快挙であった。

 初めてディフェンディングチャンピオンとして迎えた第31期八翔位決定戦(2014年)、挑戦者は、成岡・堀井統之(東京支部/第36期八翔位)・奥田直裕(東京支部)の3名であった。
 この期は四者いずれにも連勝と連敗が頻発する乱戦。既定の10回戦を迎えてスコアは上位から、奥田2昇、小川・堀井±0、成岡△2の並び。ここで奥田は東場でメンゼンチンイチを含む3度のひきアガリで一旦は優勝に大きく近づくも、南入してから成岡のヤマ越しに捕まり、さらには小川に8000を直撃されるなど失点を重ねて、トップめから陥落。こうして小川は、奥田にトップを獲られると失冠というピンチを自らのトップで切り抜け、延長戦に持ち込む。
 ここから小川の反撃が始まった。続く延長11回戦も、唯一決着権を持つ奥田がトップめに立っていたが、小川は南3局にこれを逆転するや、最後も自らのひきアガリで連勝。とうとう2昇で奥田に並び、決着権を手にすることに成功する。
 迎えた12回戦は、優勝を目指す小川vs奥田の壮絶な打撃戦となった。今度は、東4局に4000オールを決めるなどして大きくリードした小川を、南入するや奥田がじわじわと追い詰める展開に。そして、南4局の小川のオヤ番を迎えて、小川50,400・奥田49,800という超僅差となり、ここで11巡目に奥田が優勝へのチーテンを入れるも流局。こうして小川が激戦を制して連覇を達成したのであった。

 史上タイ記録となる3連覇の偉業に挑む第32期八翔位決定戦(2015年)。八翔位決定戦は、規定の10戦では決着せず毎回延長戦に入るのがもはや定番のようになりつつあったが、それでもこの期は特別だった。11回戦以降は延長に次ぐ延長が果てしなく続き、実に5日間(1日5戦)21戦が対局されたのである。これはそれまでの第21期(2005年)の20戦を上回る史上最長記録であり、恐らく今後これを超えることはないのではないだろうか。
 挑戦者は、堀川・大貝博美(退会)・関根秀介(東京支部)の3名。レースは終始一進一退を繰り返し、10回戦開始時のスコアは上位から、小川・大貝1昇、関根±0、堀川△1(7回戦はラスなし)。規定は10戦終了時単独3昇なので、この時点で延長戦に突入することは確定していたが、ここで小川は関根をラスにしてトップ、次戦に連勝できれば優勝というところまで来た。
 が、ここからとてつもなく長い戦いが始まった。決定戦3日目の11回戦でトップの大貝が2昇となって瞬間小川に追いつくも、次戦ラス(トップ関根)で決着権を手離すと13回戦も連敗(トップ堀川)で後退。以降も毎回小川以外の三者による◎と●のやり取りが延々と続く。しかも小川はその間ずっとトップを獲れないばかりか、15回戦などはラスをひかされたというのに、それでもその間じゅう決着権は小川ひとりにしかないという膠着状態が続く。
 こうして誰にも決め手がないまま延長戦は果てしなく続いたが、4日目の17・18回戦に堀川が連勝してようやく1昇と水面上に浮上し、19回戦を迎えて堀川が小川に追いついた。7戦ぶりの小川以外の決着権保有者の出現である。が、両者ともにバーを経て迎えた20回戦で堀川がラスに沈んで、ここで決定戦はついに5日目に突入することになった。
 1週間後に再開された第21回戦の開始時のスコアは、小川1昇に対して三者は揃って±0という超僅差。ここで小川は、大貝が開局のひきアガリで得たトップめを最終局で捲り、ついに八翔位戦3連覇を果たしたのであった。

 とにかく、「記録ずくめ」の決定戦だった。延長が21回戦まで行われたこと自体もそうが、全21戦を通してスコアにおいてプラスもマイナスも「3」という数字が一度も出現していないというのも特筆できる現象だと言えるだろう。
 既述の通り、小川は10回戦で2昇として首位に立って以降は、2日間10戦続けて一度もトップを奪えず、それどころかその間に1回ラスをひかされている。その10戦の間に小川は堀川4回・大貝3回・関根3回と三者に入れ代わり立ち代わりのトップを許すも、12回戦から18回戦の間はとうとう他三者は誰も決着権を手にすることができなかった。要するに、一度も誰にも追いつかれることがなかったわけである。
 これほど大接戦だったにも関わらず、終わってみれば小川の強さを改めて見せつけられたような気がしたのは、あるいはこの数字のせいかもしれない。さらには、小川は結局この21戦で4勝2敗の2昇。この戦績を見る限り、やはり101の神髄が「ラスをひかない」ことであるのを痛感させられた決定戦でもあった。

 なお、その後の小川だが、翌第33期(2016年)に菊池一隆(東京支部)に八翔位を奪われ、連覇はストップ。さらにその5年後、第37期(2021年)に再び決定戦に進出するも山内啓介に初優勝を許して、橘高正彦(退会)の持つ「八翔位4度戴冠」の通算最多記録には未到達のまま。しかし、だからと言ってこの3連覇の偉業はいささかもその輝きを失うものではないのは言うまでもない。

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 ここで、101競技連盟第3のタイトル戦「翔龍戦」についても触れておきたい。
 翔龍戦は、1995年から2004年までの10年間に渡って行われた「昇級者スプリント」を発展的解消してタイトル戦に昇格させた公式戦であり、前期順位戦各クラスにおける成績優秀者に出場資格が与えられ、予選→本戦→決勝を経て優勝者を決める形式で行われていた。
 2004年に小川は第26期順位戦B級2組において首位昇級を果たしていたため、翌2005年に記念すべき第1期翔龍戦に出場する資格を得たものの、あえなく予選で敗退。その翌々年の2007年の第3期には初めて決勝まで進むも敗退、さらにその2年後の2009年の第5期にも出場したが、またも予選で敗退していた。
 その後、小川は2011年から3年続けて決勝進出を果たすものの、2013年の第9期をもって翔龍戦そのものが終了してしまったため、とうとう「翔龍」のタイトルを手に入れることはできなかった。が、9年間で4回決勝出場というのは萱場の6回(そのうち2007年の第3期に優勝)に次ぐ記録であり、小川にとって勲章の1つであることは間違いない。
 参考までに、名翔位・八翔位・翔龍の「三冠」を全て手にしたことがあるのは西田秀幾(退会)と成岡の2名のみ(成岡はこの全てに複数回優勝)。「小川、グランドスラム達成」のためにも、ぜひとも翔龍戦復活を切望している筆者ではある。

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 ここらあたりで、話を順位戦の方に戻そう。
 八翔位戦3連覇を果たしていた3年間の小川の順位戦(第34・35・36期)の成績は、順に11勝8敗の3昇で2位、10勝9敗の1昇で4位、10勝6敗の4昇で3位(いずれも8人中)と、相変わらず安定したものだった。
 このうち、第34期は最終戦で田中に首位を奪われた件はすでにご紹介した通りだが、第36期も小川にとってはそれに劣らない悔しい結果ではなかったか。
 この期のA級戦を制して優勝したのは平井淳だったが、その平井・成岡・小川の3名がいずれも4昇でフィニッシュ。つまり、小川は期首順位の差で平井の後塵を拝したのである(この期の期首順位は上位から平井・成岡・小川の順)。
 最終戦を迎えて3名の成績は、小川が4昇で首位、続いて平井・成岡が3昇。一方組み合わせは、平井がA卓、成岡と小川はB卓だった。
 先に終わったのはB卓。南2局で成岡がオヤ番の小川に引導を渡す倍満でトップ、この時点で4昇の暫定首位に浮上した。が、遅れてA卓の平井も負けじと南3局にトップめ愛澤を捲り、自力でこちらも4昇。こうして最終的に同昇で3名が並び、期首順位の差で名翔位が決まるという史上初のケースが生まれたのだった。

 結果的に最終戦で2人に逆転されて3位で終わった小川の無念さは、想像に難くないところ。しかもその前月に八翔位戦を制していただけになおさらであろう。
 実は、長い公式戦の歴史の中で、同年度に名翔位と八翔位の両方を獲得した例は現在もまだない。1996年に第7期名翔位を獲っていた菊池が翌1997年11月に第14期八翔位決定戦で優勝。そのひと月後に行われたA級戦最終節で3位に終わって失冠するまでの間だけ両方の称号を冠したことはあったが、本当の意味でのいわゆる「名八併冠」(その期の八翔位がA級戦においても優勝すること)はまだ誰も達成していないのである。
 史上最も「名八併冠」に近づいた小川。それだけに、このA級最終戦での逆転負けが相当惜しまれるところではある。

 気を取り直して臨んだ第37期(2016年)も小川は終始抜群の安定感を発揮する。11回戦では史上14人目となる通算200勝をマークし、後半戦に入ってからは西尾・堀川との三つ巴の覇権争いを続ける。が、一時は首位に立つも33回戦のラスが響き、最後は西尾初優勝の引き立て役に終わった。
 ここまでの小川の通算成績は、740戦206勝152敗の54昇。うちA級(ここまで10期連続で在位)で積み上げた数値が357戦106勝76敗の30昇というのだから、やはりこれは素晴らしい安定ぶりである。

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 そんな小川が、それまでに経験したことのない未曽有の危機に襲われたのが、翌年の第38期(2017年)のことだった。
 例によって、この期も小川は開幕直後から好調。2日にわたって4連勝を飾るなどして首位で初節を終える。ところが、好事魔多しとはこのことか。直後から小川が不振を極め始めた。
 第2節は1勝3敗、第3節は1勝1敗、第4節にいたってはノートップの2敗と、小川は最終節を6勝8敗で△2の6位で迎えることとなったのである。
 その最終節初戦で久々にトップを獲るも小川の順位は変わらない。それどころか、次戦のラスでとうとう7位と降級ポジションに落ちてしまうありさま。小川が、A級戦最終節のさなかに降級ポジションに位置していたことなど、それまでの10年間で一度もなかった「珍事」であった。
 この期は、平井が開幕直後から絶不調で早い時期から最下位必至となっていたが、小川もマイナスの世界からなかなか抜け出すことができず、最終節2日目の33回戦では残留争いのライバル堀川にトップ→ラスを食らわされる。これで小川はついに△3までスコアを落とし、今や小川の残留は絶望かと思われた。

 しかし、小川はここから驚異的な粘りを発揮する。34回戦は流局続きの胃の痛くなるような小場を制して何とかトップ、それでもまだ小川が残留するための最終戦の条件は、まず自身は◎必須、かつ同卓の西尾もしくは別卓の堀川か亀井敬史のうちの誰かが●という相当に厳しいもの。
 ところが、ここでドラマが誕生した。
 まずB卓、終盤までずっとラスめに封じ込まれていた小川だったが、もはやこれまでと思われた南4局、ラスオヤ小川の執念が実る。ここから懸命に連荘を重ね、結果的に奇跡とも思える成岡との同点トップ。小川がA級戦で同点トップをマークしたのは、実はこれが初めてという実に貴重なものだった(通算では5回目)。
 最後は西尾が田中から出アガって終戦となったのだが、もしこれがひきアガリであれば、小川にとっては全てが水泡に帰するところであった。
 それでも、A卓の堀川と亀井がともにバー以上であれば小川の降級が決まるところだったが、こちらは南4局その2、堀川がラスめ平井に捕まってよもやのラス。ちなみに、南4局を迎えてラスめだったのはラスオヤの亀井だったのだが、もしそのまま終了していれば亀井が△1で降級していた。
 かくも困難かつ複雑な条件をクリアして、小川はA級入りして初めて経験する苦境を、人一倍強靭な精神力をもって自力で乗り越えてみせた。A級入り後8年目にして初めてトップ数がひと桁に終わり、逆にこれも初めてラスの数が10を超えたという苦しい1年間を、こうして小川は何とか乗り切ったのだった。

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 A級入りして初めてマイナスに終わった小川だったが、すぐに翌第39期(2018年)から態勢を整える。この期は開幕戦でトップを獲った名翔位・田中が初戦でいきなり首位に立つや、そのまま1年間その座を誰にも明け渡すことなくゴールインするという史上初の快挙(この2年後に成岡も達成)を成し遂げる圧勝でA級戦を連覇。一方の小川は、ラスでスタートするもその後じわじわと順位を上げ、最終的には12勝7敗の5昇というスコアを残し、堂々2位でこの期を締め括った。
 続く第40期(2019年)は8勝8敗の±0で4位、第41期(2020年)は7勝6敗の1昇でこれも4位と小川にしてはやや平凡な成績で、2年続けてほとんど優勝争いに絡めなかった小川だったが、ようやく2度目の戴冠を果たす時がやってきた。

 コロナ禍で混乱を極め、翻弄され続ける社会。当連盟も例外ではなく、日程や活動その他に大きな影響を受けながら、第42期(2021年)は不安の中で開幕した。
 開幕初日、いきなり4戦4勝というこれ以上ない滑り出しを見せる小川。が、すぐに西尾が猛追し始め、早くも第2節には逆転される。さらに第3節には愛澤も台頭し、一時は首位に。こうしてしばらくの間この3人による首位攻防戦が繰り広げられる展開となったが、第4節初日に小川は5昇として久々に首位に返り咲く。その後、瞬間首位の座を西尾に奪還されるも、直後に小川はこれを奪い返して、いよいよ最終節を迎えることとなった。

 その初日、2位の西尾が2つ、3位の愛澤も1つそれぞれ星を伸ばす中、小川は1勝1敗の現状維持。2日目開始時点の成績は上位から、C小川7昇G西尾6昇A愛澤4昇(丸囲み数字は期首順位)というもの。残り3戦、小川がやや有利であることは間違いないが、何が起こるかわからないのがマージャン。小川自身、いささかも慢心することなどなかったに違いなかろう。
 33回戦、小川がバーで終わったのに対し、西尾・愛澤はともにラスに沈み、ここで愛澤が脱落。次戦、小川がバー・西尾はトップ、こうして最終戦は小川7昇・西尾6昇のスコアで別卓に分かれて迎えることとなった。西尾◎小川●の場合のみ、西尾の逆転優勝が決まる。
 運命の最終戦、小川は終始落ち着いたゲーム回しで手堅く局を進めてバーで終了。ここに、別卓の西尾の結果に関わらず、小川の11年ぶり2回目の名翔位獲得が決定した。成績は11勝4敗の7昇、7昇及びラス4回は、小川自身のA級における最多記録・最少記録。まさに「101競技の覇者」に相応しい見事な成績であった。
 通算成績【表A】は915戦253勝187敗(うちA級戦での成績は533戦153勝111敗)。生涯昇66は成岡の89に次ぐ歴代第2位であり、冒頭でご紹介したようにラス率20.44%は現役最低記録である(歴代最低は青野の19.45%)。詳細は、【表B】をご覧いただければと思う。

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 ここでやや視点を変えて、小川の「通算対戦相手別成績」に注目してみたい。
 【表C】をご覧いただければおわかりのように、これまでの26年間で最も対戦数が多いのが対愛澤戦で201戦である。一方、愛澤から見て最も対戦数の多いのは対成岡戦で、その数は実に326戦、これは成岡から見ても同じである。ちなみにこの326という数字が順位戦史上最も多い相手別の対戦数であり、今後もこの数字は更新され続けていくに違いなかろう。
 それはともかく、この表をじっくり見てみると、興味深い数字が散見されることに気が付く。表の「結果A」というのは、小川側から見た対戦結果であり、対して「結果B」は相手から見た場合のそれ。小川は対愛澤戦に56勝41敗でその差は15、一方で愛澤は41勝46敗の△5で、単純に合計して20の勝ち越しになるわけである。
 生涯昇66を誇る小川なので、このように勝ち越している相手が圧倒的に多いのは自明の理だが、同じ勝ち越しでも先ほど触れた対愛澤戦とはまた異なる内容のものもある。例えば、小川の対成岡戦がそれである。
 これまで成岡と186回戦ってきた小川は、54勝40敗で14の浮き。一方、成岡側からは小川を上回る61勝44敗で17の浮き。これはお互い相譲らずのほぼ甲乙つけ難い結果だろう。
 興味深いと記したのはここである。マージャンは、例えばゲームなら囲碁や将棋、スポーツでいえば相撲・柔道・ボクシングといった一対一の勝負とは異なり、一方が勝ち越せばもう片方は負け越しているとは限らない。これを小川の対成岡戦についてもう少し詳しく掘り下げてみると面白い結果が出た。

 成岡と小川の数値を和すると、合わせて115勝84敗の31のプラス、成岡・小川と同卓した対戦相手はこの両名に62%近くトップを獲られていることになる。マージャンは4人で行うゲームなので、一人がトップになる確率は単純計算で25%。にも関わらずこのパーセンテージを見る限り、これまで成岡・小川と同卓した2人はいかにこの2人にやられているかが顕著に表れている。
 数値自体はやや劣るものの、これとやや同様のことが言えるのが小川の対西尾戦である。小川に遅れること2年後の1998年に順位戦入りした西尾はC級・B級2組時代から小川との対戦が多く、A級戦含めてこれまで小川と12年に渡って154回顔を合わせている。
 その対戦成績は、小川の46勝33敗で13の浮きであるのに対し、西尾も負けず劣らず42勝30敗で12浮いており、合わせて88勝63敗で25の貯金。両者でトップ率は57%を超えている。また、小川は対田地戦の85回においても11、田地が10の浮きで、合わせたトップ率は62%超で、これは対成岡戦のそれを上回っている。

 なお、小川と田地の対戦はA級・B級1組・B級2組・C級の4クラス全てに渡っている。順位戦は、1990年の第11期にクラス別のリーグ戦がスタートし、A級戦の優勝者を「名翔位」と称することになった(初年度は3クラスでスタート)。これ以降のべ111名いた順位戦選手のうちこの4クラス全てに在籍した経験を持つ選手は24名(今期初めてA級に昇級した小宮山勤が25人目としてこれに加わった)。さらに、全クラスにおける対戦経験があるのは8組しかない現象(小川は、田地・有馬真人=退会=の2名)であり、その最多記録は平井の3名(成岡・伊藤・村田光陽=退会=)である。

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 以上、ここまで小川が26年間の選手生活で残してきた記録やデータ類をあれこれ振り返りながら、その戦績や偉業を披露させていただいた。
 最後に、小川が2回目の優勝を果たした直後に筆者が目撃した忘れられないシーンをご紹介して、筆を措きたいと思う。

 この日の対局は、潟Xリーアローズコミュニケーションズ(山田昌和代表)が運営する東京・大塚の「麻雀スタジオ」で行われた。当日立会人を務めていた筆者は、最終戦が終了したあと、「インタビューがあるから実況席に移ってほしい」と小川に告げるため対局スタジオに入ったところ、彼は両眼を真っ赤に腫らしたまま、しばらく席を立てないでいたのである。その時、小川のその姿を見た筆者は彼の感情を慮って「落ち着いてからでエエから」としか声をかけられなかった。
 これは打ち明け話になるが、この15年前に筆者は小川の涙を一度だけ見たことがある。本稿でもご紹介した、小川が初めてA級への昇級を決めた直後のことだった。あの際、小川とともに昇級したのは実は筆者だったのが、その時の自分がバチ当たりなことに「やっと終わった」程度の感想しかなかったのに対して、対局終了後の小川は目に涙を浮かべていたのだ。
 その時、小川と筆者は別卓だったのだが、こちらの卓の結果次第では小川の昇級はフイになる可能性があり、それがなかったことを確認して思わず安堵したためだろうと当時は感じていた。
 しかし、今回の涙は明らかにそれとは異なるものだった。うまく表現できずもどかしい限りだが、苦しさを切り抜けて感極まったというか、感情の爆発を必死に堪えているとでもいうか。月並みだが、とにかく今は安易には近寄らずにしばらくの間そっとしておかないといけないと、筆者にはそう思えたのである。滅多に触れることのできない、貴重で尊いものを目の当たりにしながら。

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 ようやく脱稿しようとしている今にして思うと、やたらと長い駄文になってしまったかもしれないと、いささか反省しているところである。もちろん、長い付き合いのある盟友への思い入れもあった。ただ、小川が今回成し遂げた偉業とこれまでの四半世紀を超える足跡に思いを馳せれば、これは絶対に遺さねばならないという、ややキザな言い方になるが、ある意味「歴史の証人」としての使命感に似たような感情もあったように思う。

 最後までお読み下さり、感謝の念に堪えません。ちょうど今年還暦を迎えた小川隆名翔位の今後のますますの活躍を祈念し、また当連盟への変わらぬご指導とご声援をお願いしつつ、このあたりでお別れしたいと思います。
 どうもありがとうございました。

2022年冬 「記録小僧」こと山内啓介(日本麻雀101競技連盟)