昨年2月に、小川隆2回目の名翔位獲得を記念して『小川隆物語』を執筆させていただいた記録小僧です。多くの101のコアかつマニアックなファンや関係者の方に読んでいただき、それなりの反響もあったようで、このたび調子に乗ってその第2弾をお届けしようと思い立ちました。

 さて、今回ご紹介するのは、今から5年前の2018年に第39期順位戦B級戦をもって現役を引退した堀川隆司。
 2004年に第15期名翔位に輝いた堀川。公式戦で手にしたタイトルはこれのみであるため、周囲にもファンにもいわゆる「記録より記憶に残る名選手」という印象が強いかもしれないが、改めて彼の足跡を辿ってみると実に興味深い様々な記録を遺しており、それもまさに波瀾万丈と表現すべきものが数多いことに気付く。そういった意味では「記録にも記憶にも残る名選手」だった、というのが記録小僧の偽らざる堀川評である。
 そんな堀川の101競技連盟における波乱に満ちた壮絶な26年間を、データを基に筆者とともに振り返っていただこう。題して、堀川隆司物語――。

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 堀川隆司は第14期(1993年)に、その前年に行われた新人選手の入会試験である選抜戦を参加者の中でトップの成績で勝ち上がり、101競技連盟に新規加入した。実は堀川は、その2年前から始まった選抜戦通過にここまで2年続けて失敗しており、文字通り「3回目の正直」で順位戦C級戦デビューを果たした。それは、その後の艱難辛苦に満ちた選手生活を予感させるかのような競技人生のスタートでもあった。
 デビュー当時の堀川は、直前に東京大学を卒業して教育業界に飛び込んだばかりの、社会人としても一年生。色黒な面体に、いかにも秀才であることがひと目でわかる度の強いメガネ姿が今でも思い出される。堀川を含むこの年の選抜戦合格者5名の中には、後に連覇を含む八翔位戦3度戴冠の偉業を達成した有馬理(特別会員)や、今もテレビやネットの麻雀番組のMCや解説者、ナビゲータなどとして活躍中の梶本琢程(退会)らがいた(有馬は1987年の第8期以来の順位戦復帰)。
 なお、堀川は連盟入り直前に、当時近代麻雀誌主催の「麻雀最強戦」読者大会の決勝戦まで勝ち進み、アガれば優勝濃厚という国士無双のテンパイを果たすものの、そのテンパイ打牌がリーチに放銃となって玉砕するという、いかにも堀川らしい場面も見せている。

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 さて、ようやく果たした順位戦参加の初年度、堀川はいきなりラススタートとなってしまったが、次戦には初トップを飾ってすぐにスコアをイーブンに戻す。その後は16戦ノンラスを続けるなど手堅いスコアで推移し、年度後半には3位にまで浮上。結局この期は32戦6勝3敗の3昇で12名中6位と、まずまずの成績でデビュー年度を乗り切った【堀川隆司 公式戦全成績】
 翌第15期(1994年)、順位戦はクラス構成員数の改編があったため、堀川は早くもB級2組で10名中7位にランキングされる。が、一見幸運にも思えるこの“昇級”が、実は堀川にとって苦難の道程の始まりであったことは、当時はもちろん堀川自身にも予想できなかったに違いなかろう。

 その第15期B級2組、堀川は初節こそ2勝3敗で凌いだものの、第2節から早くも苦闘が始まった。ここから3節連続で負け越しを喫し続け、最終第5節開始時点では最下位に転落。最終戦のトップでようやくこれを脱するのが精一杯で、結局9位で降級となってしまった。
 前年度のC級戦において堀川より下位の成績だったにも関わらず、先に触れた構成員数の増加により堀川と同じくC級からB級2組に繰り上がっていた伊藤英一郎(故人)と有馬が揃ってこの年昇級を果たしたのと比較しても、厳しくも哀しいコントラストではあった。

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 堀川の低迷は、この後もしばらく続いた。
 第16期(1995年)C級戦は多くの新人選手を迎えたため、16名4卓で構成される大所帯となった。この、昇級2名・下位4名に降級点という厳しいサバイバルレースにおいて、堀川は第2節までこそ3勝2敗と無難な成績を収めるも、第3節に1勝6敗と大不振に陥り、この間に見る見るうちに順位を落としてしまう。
 結局、最終第4節は2勝2敗でまとめるものの、23回戦でラスを喫して降級点ポジションに陥落してからは最後までこれを脱することができず、最終的に△4の14位で降級点を喰らってしまう。
 翌第17期(1996年)も堀川の不振は止まらなかった。この期は15名中順位8位でスタートした堀川だったが、開幕からどうにもスコアを残すことができない。最終第4節も、残り2戦の時点で12位と「クラス外陥落→選抜戦再受験」という大ピンチを迎えるが、この2戦を何とか連勝してやっとのこと降級点ポジションから抜け出すありさまだった。
 続く第18期(1997年)、一念発起した堀川は、一転して年間を通して一度もマイナスに落ちないという好成績を見せ、昇級こそ叶わなかったものの2昇で3位。年間昇がプラスだったため付いていた降級点の解消にも成功した。なお、この期の7回戦から28回戦にかけてマークした22が、結果的に堀川の生涯ノンラス記録となる。
 ところが翌第19期(1998年)、降級点を解消し、期首順位1位にランキングされて再び昇級を目指す堀川を悪夢が襲った。4勝10敗の△6の12名中11位、最下位の選手も△6だったので、実質最下位にも等しい悲惨な成績である。
 これで堀川は通算2度目の降級点付与となった。一旦は解消した降級点が再び付いたのは堀川がC級戦史上初めてという屈辱であった。

 今にして思えば、堀川が最も苦しんで悔しさに苛まれたのはこの5年間ではなかったか。TVドラマ「水戸黄門」のオープニングテーマよろしく、自身のあとから順位戦に参加してきた後輩や毎年入ってくる何人もの新人に抜かれてしまう。同期入会のうちの1人はこの期のB級1組で昇級を果たして翌期からA級選手となる。いったい堀川はどんな思いでこれを眺めていたのだろう。
 堀川のここまで6年間の生涯成績は、196戦35勝46敗の△11。ラス率23.47%はともかく、トップ率が18%を割っているのが響いていることがよくわかる。それにしても、最終的に31昇をあげ、歴代第8位の生涯昇をマークした堀川の成績とは俄かには信じがたく、若かりし頃の堀川の悪戦苦闘ぶりが実によく表れていると思う。

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 そんな堀川にようやく陽が差し始めたのが翌第20期(1999年)のC級戦だった。13名(途中休場の1名含む)中9位スタートとなった堀川は開幕節を2勝2敗とすると、次節からスパークし始める。第2節3勝0敗、第3節2勝1敗、第1節の7回戦でラスをひいてから最後までラスを僅かに1回しかひかない(その間6勝)という充実ぶり。最終第4節も3位の選手の猛追を懸命に振り切り、最終的に32戦8勝3敗の5昇で見事に2位で昇級を決めたのである。

 4年前とは異なり、今回は自力で正真正銘のB級2組昇級を果たした堀川。第21期(2000年)開幕戦で幸先よくトップ発進した堀川だったが、そこから11戦トップがなく、その間に4敗を喫する。今期もまたこれまでと同じ轍を踏むのかと案じられたが、第2節から第3節にかけて自身初となる5連勝(自身の最多連勝記録)を飾るなど奮戦。その後もジリジリと順位を上げ、最終的には9勝8敗の1昇で3位に滑り込む健闘を見せた。
 この期のB級2組は早い段階からいわゆる「2強」状態に入り、最終的には昇級者が10昇と7昇という抜群の成績でフィニッシュしたため、堀川はとうとう最後まで昇級争いには絡めなかった。だが一方で、△2の選手が降級するという熾烈な下位争いを堀川はくぐり抜けたという点では評価できる1年ではあった。4・5位が±0、6・7位が△2だったことを見てもそれがよくわかると思う。
 そして、ここで3位に滑り込めたことが、その後の堀川にとって大きな出来事だったように、実は記録小僧には思えてしかたがないのである。

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 前期のB級2組で昇級にこそ届かなかったものの、厳しかった中位レースを勝ち抜いて3位を勝ち取った堀川に思わぬ朗報が飛び込んできた。B級1組で休場者と退会者が合わせて2名出たため、9名中幕尻ながら堀川のB級1組ランキングが決まったのである。前期3位に対するご褒美のようなこの“昇級”が堀川のその後に大きな影響を及ぼしたのは間違いなく、改めて順位というものの大きさや重要さを物語るエピソードではある。

 順位戦入り9年目にしてようやくB級1組まで上がってきた堀川。新たな世紀を迎えた第22期(2001年)はかつてのような、開幕直後はともかくどうしても途中からラスが先行するようなスタイルはすっかり影を潜めていた。無理にトップを狙うのでなく、頑なまでにスコアを堅守して常に地道にプラス昇で推移する手堅い雀風を誇るタイプへと明らかに変貌していた。まさに「堅忍不抜」だった。
 この期は年間を通してついに一度もマイナスに落ちることなく、40戦10勝8敗の2昇でゴールイン。この期のB級1組も2年前のB級2組と同様、開幕直後から有馬・菅原広行(退会)の2名が快走し続けるという展開の中、手堅く第2集団の先頭をキープし続けて、これも前年と同じく3位を死守した。
 翌23期(2002年)もB級1組はこれまた前年と同じく、開幕直後から山内啓介・村田光陽(退会)の両名が昇級ポジションを独占し続けるという展開で推移。堀川も一時はこれに迫るが、最終第5節で惜しくも力尽きてまたも3位で終了。スコアも前年と全く同じ40戦10勝8敗の2昇だった。
 とはいうものの、ここまで3年続けて次点に甘んじてきた堀川。今期こそ自分の番と意気込んで順位戦に臨んだであろうことは想像に難くない。そして、気がつけば101競技連盟に籍を置いてすでに10年余が経過、年齢も三十路に入り、まさに打ち盛りで脂の乗り切った堀川が、とうとう羽ばたくその時がやってきた。

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 第24期(2003年)B級1組は10名で構成され、堀川は3位にランキング。ともに1年でA級から叩き返されてきたとはいえ実績、実力いずれも申し分なしの菅原広行・有馬理をはじめ、萱場貞二・福井久善・平井淳・西野善春といったベテランを相手に回した、堀川の負けられない1年が始まった。
 参考までに、この4名はいずれも第9期(1998年)順位戦開幕前に新人選手公募のために実施された「新人戦」1期目の合格者である。かつて、この新人戦を改定して実施されることになった「選抜戦」において2年続けて苦汁を舐めさせられた堀川にとって相手に不足はなく、改めて堀川は闘志を燃やしたに違いなかったであろう。

 この期、堀川は第1節を4勝1敗としてこれ以上ないスタートを切る。第2・3節は合わせて1勝2敗、第4節は一転して7戦3勝1敗という、堀川にしては珍しい星の出入りの激しいスコアで、最終第5節を迎えた時点でアタマハネながら4昇で辛くも首位に立っていた。前節途中で一時は5位まで落ちていたことを思えば、よくぞここまで順位を上げたものだが、一戦ごとに順位の変わるこの期の昇級争いはそれほど僅差で熾烈なものだったのである。
 その運命の最終節、初戦抜け番だった堀川は次の自身の初戦にラスをひいて一気に順位を3位に落とすが、すぐ次戦に他力ながら昇級ポジションである2位に浮上。しかし堀川自身は、その後はラスこそひかないもののなかなかトップが獲れず、重苦しい展開が続く。12月にも関わらず、汗ばむほどの熱気が当時千葉県市川市にあった対局室を包んでいた。
 そして堀川に残された今期順位戦最後の3戦。昇級争いはC福井5昇・B堀川3昇・D萱場3昇・G西野2昇・A有馬1昇という並び(丸囲み数字は期首順位)。
 まず43回戦、堀川は西野と同卓のC卓で今節初星を挙げるが、D卓では首位の福井もトップでこちらは昇級確定。同卓で萱場はラスをひいたためやや後退し、残り2戦で堀川4昇・萱場2昇・西野2昇・有馬1昇と堀川はこれで大きく昇級に近づいたものの、もちろん勝負は下駄を履くまでわからない。

 そしてその次戦、昇級を目前にした堀川に最後の試練が訪れる。44回戦C卓(平井△2・西野2昇・西△7・堀川4昇)は、東2局に堀川が西の5,200に捕まったのを契機に、堀川を除く三者による乱打戦となった。そして、南2局には西野がラスめの堀川を向こうにトップめに立つ4,000オール。西野は南3局にも加点して断トツとなり、ここまで手も足も出ない絶体絶命の逆風の中、いよいよ堀川が南4局のオヤ番を迎えた。
 このまま終われば、西野より順位上位ながら同昇で並ばれるだけでなく、先に終了していたD卓では有馬も連勝して2昇としている。最終戦次第では残り1つとなった昇級枠を最後の最後に失いかねないという大ピンチが堀川を襲っていた。
 しかしここで、堀川の昇級への執念が奇跡を呼び寄せた。残り3巡でようやくテンパイを果たした堀川は、流局直前の最終ツモでフリテンながら6,000オールを成就。この一撃で堀川は西野を一気に逆転して400点上に立つや、その2では相手3人を全員ノーテンに完封して流局に持ち込み、最終戦を待たずしてA級への昇級を自力で決めたのであった。
 なお、堀川はその最終戦もトップで都合3連勝、とうとう福井をも抜き去って見事に首位昇級を果たしたことも書き添えておく。

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 1993年の第14期順位戦でデビューして以来、干支がひと回りする12年目にしてついに堀川がA級の舞台に立つことになった。
 1990年(第11期)に順位戦が現行のクラス分け(いわゆるリーグ戦方式)制度を採用して以来、昨期小宮山勤が順位戦入り21年目にして初めてA級に昇級したのが最長記録であることが話題になったが、この堀川の12年目というのは、亀井敬史の17年目(休場含む)、西尾剛の15年目に次ぐ記録である。ちなみに前名翔位の小川も、初めてA級に昇級したのは堀川と同じく12年目だった。
 また、形式に関係なく順位戦登録以来と範囲を拡げると、伊藤(第1期登録)も初A級昇級は20年目のことで、小宮山はそれをも上回ったことになる。
 なお、昨期までにA級に在籍したことのある選手は通算で51名いるが、いずれにせよこれも苦労人・堀川らしいデータの一つではあろう。

 ここまでの生涯成績は380戦83勝78敗の5昇。トップ率こそ22%に満たないものの何より20.53%という低いラス率が素晴らしく、この頃より「ラスをひかず、常にバーをキープする男」のイメージがすっかり定着してきたように思う。
 その4年前には瞬間△11にまで落ちていた生涯昇も前期でプラスに転じていた。参考までに、その後の堀川は引退するまで、その期を終えた時点での通算ラス率が21%を超えることも、生涯昇がマイナスに転じることも一度たりともなかった。

 そしてこの年の12月、堀川が偉業を達成する。

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 第25期(2004年)A級戦、堀川は10名中9位にランキングされ、2戦目にA級初トップ。その後連敗を喫するもののすぐ5戦目にトップを獲り返して、初節は2勝2敗とまずは無難な滑り出し。
 第2節も堀川は同じく2勝2敗で乗り切り、第3節は3勝無敗。順位もジリジリと上げ、この終了時には5昇の首位・成岡明彦に次ぐ2位につける健闘を見せていた。が、正直この時点では、成岡を含む周囲もそして当の本人でさえも、年末に起こる出来事を脳裏に浮かべる者はいなかったのではないか。
 迎えた第4節も堀川はラスをひくことなく淡々とゲームを消化し続ける。結局この節を2勝無敗で凌いだ堀川は、ここまで9勝4敗の5昇で2位。一方の首位を走る成岡もこの節は1勝無敗で10勝4敗の6昇としていたため、その差は僅かに1昇、ただし堀川の方が期首順位は下位なので実質1.5ゲーム差である。
 ちなみにこの両名の最終節突入時のこの期のノンラスは、奇しくもいずれも15。これは相当レベルの高い、いかにも101の名手らしい首位争いと言えよう。この2人を追って最終節を迎えたのは安川秀樹2昇と涌田悟1昇だったが、傍から見てもこの期の名翔位争いは実質成岡と堀川に絞られた感があったのは、このスコアの堅実さのなせる業でもあったような記憶がある。

 運命の最終節、当時大阪府東大阪市にあった大阪対局室でのその初戦は、両者の直接対決となった。ここで堀川は久々にラスをひかされ、一歩後退。ところが、その後何とか耐えている間に成岡がよもやの連敗を喫したことで、初日(40回戦)を終えてレースは一気に混沌としてきた。
 この時点での順位は上位から、@成岡4昇・H堀川4昇・F安川3昇・E涌田1昇・I福井1昇という並び。10人制順位戦の最終日は5戦で全員抜け番1回ずつなので、1人残り4戦である。
 最終節2日目、首位の成岡は初戦抜け番を挟んでトップ、続いてラス。一方の堀川はバー・抜け番・バー、そして安川がバー・抜け番・トップで、ついにこの3名が同じ4昇で並んだ。つまり安川より期首順位下位の堀川は3位に順位を落としたことになる。
 残り最後の2戦、堀川と成岡は連続で直接対決。そしてその44回戦、別卓の安川はバーで4昇のまま。一方の堀川は、大きく先行した成岡を南3局で逆転してトップとし、最終戦を前にとうとうこの期初めて首位に立った。
 最終45回戦を迎えて、優勝の可能性は堀川5昇・成岡4昇・安川4昇に限られた。このうち堀川は、トップなら優勝確定、逆にラスイコール敗退、そしてバーなら残り2名の結果次第という微妙な状況下で最後のA卓に着くことになった。ちなみに堀川は後に『101マガジン』の自戦記に当時の自身の心境を「半トップ縛り」という表現で著している。

 ゲームはまたも成岡の先行で始まったが、道中で涌田がこれを捲る、いや堀川の立場からは捲って「くれた」と言うべきか。しかし、何と肝心の本人はラスめに落とされるという苦境。このままでは堀川に優勝はないところだったが、ここから堀川は自力でラス抜けに成功。そして最終局、最後までトップによる自力での優勝を諦めていなかった堀川だったが、当面の敵・成岡のリーチを受け、最後は別卓の結果に運命を委ねるかのように自らホウテイ牌を静かに河に置いて流局、結局バーで最終戦を締め括った。
 ほどなくしてB卓が終わった。安川はラス、この瞬間堀川の優勝が決まった。A級昇級のその初年度に名翔位獲得となったのは第14期(1993年)の菊池俊幸(名誉会員)以来9年ぶり2度目の快挙であった(この9年後に田中実が3度目を記録)。

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 順位1位で迎えた翌2005年の第26期A級戦、連覇こそ逃したものの堀川は年間を通して安定した戦いを見せ、9勝7敗の3位で終了。続く第27期(2006年)も9勝8敗の5位だった堀川だが、続く第28期(2007年)はやや苦しい1年だったのではないか。
 この期の堀川は開幕直後から振るわず、15回戦のラスで最下位に沈むやその後26回戦まで降級ポジションのまま。が、27回戦に12回ぶりにトップを獲ってこれを脱すると、持ち味の粘り強さを発揮して最後まで凌ぎ切り、最終的には8勝10敗の7位でA級3期目を終えた。なお、堀川が年間をマイナス昇で終えたのは、あの泥にまみれたかのようなC級時代以来9年ぶりのことであった。
 しかしこれは、逆に言えばそれだけ成績が安定してきたことの証左でもあろう。この期を終えた時点での生涯成績は523戦119勝108敗の11昇。ラス率は20.65%と抜群である一方、9年前には生涯昇を△11まで落としていたことを考えれば、ここまで伸ばしたことそのものが敬服に値すると言えよう。

 振り返ってみると、このあたりから堀川には「A級選手」としての貫禄といったものが備わってきたように思う。翌期(第29期/2008年)こそ31回戦まで維持していた首位の座を失うや、残り8戦で5ラスという堀川にしては珍しい急失速で結果的に6位(9勝9敗)に終わったが、翌期からの成績は10勝6敗(3位)・9勝7敗(3位)・10勝6敗(2位)と堅実そのもの。
 このうち、2位に終わった第32期(2011年)は惜しかった。この期のA級戦は最終戦を迎えた時点で5昇1人・4昇3人という稀に見る超混戦。堀川はこの4名のうちで最も期首順位が上位だったため、自身がトップであれば優勝といういわば「マジック1」で最終戦に臨んだにも叶わず、同じ4昇の堤一弘(退会)にトップを獲られたのでその後塵を拝したのだった。
 なおこれは余談だが、優勝した堤はこの期をもって退会したので、翌年の堀川は前期2位であったにも関わらず星取表の最上位に位置するという珍しい「A級戦唯一の珍事」を経験している。

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 その第33期(2012年)、堀川は序盤こそ首位を走るなど好調だったものの、その後はなかなか星を伸ばすことができない。結局このまま堀川は最終節を迎え、初日の最終戦のラスでついに7位。この期からA級戦は8人制(降級は2名のまま)となったため、降級ポジションに転落したことになる。何とか最終35回戦で薄氷のトップを手にしたため何とか降級は逃れたものの、最終的に7勝9敗という数字以上の苦戦に終始した1年だったように思える。
 そして第34期(2013年)、堀川は序盤から思いもよらぬ苦しむことになる。スコアこそ決して悪いものではないのだが、この期のA級戦は通期でほぼ全員のスコアが非常に拮抗し続けており、堀川は中盤こそ順位を持ち直すものの、後半戦に入るやまたも下位に甘んじる状態から抜け出すことができない。
迎えた最終戦、その直前に7位に落ちていた堀川は、6位の平井とは別卓。両者のスコアは同じ△1、ただ堀川は平井より期首順位は下位である。前年に引き続いて最終戦で残留か降級かという土壇場に立たされた堀川だったが、東場での放銃による失点が重くその肩にのしかかる。そして南3局にリーチ宣言牌でのオヤへの12,000で万事休す、これで堀川の降級が決まった。
 △2で降級とはいかにも不運ではあったが、そのスコアは8勝10敗だった一方で残留した平井のそれは9勝10敗。要するにトップかラス1回の差が天国と地獄の行方を決したわけである。「ラスをひかずにトップをとる」というのが101の普遍の命題だが、何とも残酷な結果ではあった(参考までに、その平井はこの3年後に△1で降級というA級戦では最も少ないマイナスでの降級を喫している)。

 名翔位戴冠1回を含み11年続けてキープしてきたA級の座を失った堀川。捲土重来を期して第35期(2014年)B級戦に臨んだであろうことは想像に難くない。
 その気持ちが空回りしたわけでもないだろうが、堀川はいきなりよもやの連敗スタート。が、ダテに11年もの間A級を張っていたわけではないとばかりに、ここから堀川が意地とその実力を見せつける。14回戦でスコアをイーブンに戻すやここから3連勝。18回戦以降は閉幕までの18戦ノンラス(この間4勝)で、終わってみれば10勝4敗の6昇で、堀川は他を寄せ付けない堂々の首位昇級を果たす。このラス4回は8名中最少、まさに面目躍如の「日帰り昇級」であった。

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 1年で定位置だったA級に復帰してきた堀川、第36期(2015年)は終始通年で2昇から△1を推移し続けるという「水平賞」的スコアで、結局6勝6敗の5位でフィニッシュ。ちなみにトップ・ラスとも6回はいずれもクラス内最少タイであった。
 そんな堀川が、前期の鬱憤を晴らすかのようなスパークを見せたのが翌年の第37期(2016年)だった。開幕してからしばらくの間は可も不可もないスコアで推移していた堀川は、12〜14回戦で3連勝し一気に2位に浮上。さらにトップとラスをそれぞれ1回ずつ挟んだ20回戦からまたも3連勝をマーク。この時点で7昇としてトーナメントリーダーの地位を手中にする。その後しばらくはトップに恵まれず、その間2ラスを喫して一時は3位に転落するものの、ラス前の34回戦では別卓の小川がラスをひいたのを尻目にトップを奪って首位に肉薄する。
 最終戦を迎えての名翔位争いは、E西尾7昇B小川6昇D堀川6昇という三つ巴。うち西尾のみ別卓である。この乾坤一擲の最終戦において堀川は序盤から快走を見せてトップで獲るのだが、残念ながら逆転は叶わなかった。別卓の西尾が大貝博美(退会)との同点トップを決めたからである。
 結局堀川は7昇を挙げながら僅か0.5ゲーム差で2度目の名翔位をその手にできなかったわけだが、この7昇という成績は次位者のものとしては第20期(1999年)の萱場貞二(退会)の9昇に次ぐタイ記録(他に4件)である。なお、その期の優勝は12昇だった金子正輝(名誉会員/最高位戦日本プロ麻雀協会)で、3位の選手も7昇だった。
 参考までに堀川はこの年の8月、最高位戦日本プロ麻雀協会主催の「飯田正人杯・第11期最高位戦Classic」で準決勝を1位で通過し、決勝戦に進出している。101の選手はそれまでもこの後も多くの選手がこのタイトル戦に参加しているが、ファイナルまで残ったのは後にも先にもこの時の堀川が唯一の例である。

 さて悲劇は、その翌年も堀川を襲った。第38期(2017年)の堀川は開幕以降一向にエンジンがかからず、小さいものの常にマイナスのまま時間だけが経ってゆく。それでも持ち味の粘り強さを発揮して大崩れすることなく後半戦に入り、26回戦のトップでようやくスコアをイーブンに戻す。が、最終節の31・32回戦で連敗を喫し、何とか次戦トップ、△1で最終戦を迎えた堀川。すでに平井の降級は決定していたので、残る1名の残留争いは、@西尾△1A堀川△1B小川△2の3名に絞られた。その期の期首順位上位3名による残留争いとは珍しいが、堀川はラスさえひかなければ残留できる。
 ところが、100点浮きの3着めで迎えた最終局に事件は起きた。すでに9巡目にテンパイを果たしていた堀川14巡目の打牌に平井から声がかかると、これが5,200。あろうことか堀川は自らラスに転落してしまったのだ。それでも別卓の小川にトップさえなければ薄氷の残留で終わっていたのだが、運命は残酷だった。あたかもこの放銃を咎めるかのような「小川、別卓でトップ」の報が堀川にもたられたのである。

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 2年続けて最終戦で悪夢を見た堀川が、4年ぶりにB級にランキングされた。その無念さは表現のしようがないほどであったことは言うまでもなかろう。しかも昨期はその3年前と同じ△2である。過去の順位戦では△7で残留という例もあり、こんなスコアで降級を2回も喫した選手はクラスに関係なく堀川以外にはおらず、まさに悲運としか言いようがない。
 それでも気を取り直して第39期B級戦(2018年)に臨んだ堀川。順位戦入り26期目、名翔位獲得からすでに13年が経っていた。3名の新規加入を加えて行われたこの期の所属選手は全部で11名。抜け番の多いやや変則的なこの期、堀川は順位1位にランキングされスタートした。
 開幕戦こそ不覚を取ってラスから始まった堀川だったが、16回戦からは抜け番を挟んで3連勝をマーク。これで4年前と同じく日帰り昇級に向けた態勢が整ったかのように見えたが、好事魔多しとはこのことか。堀川自身久々となる大阪対局室で行われた真夏の第3節最後の25〜27回戦で、堀川はまさかの3連敗を喫するのである。
 3連敗などさほど珍しくはないのではないかと思われる読者も中にはおられるかもしれないが、実は堀川は非常にこれが少なく、特にこれまで1節の間に3連敗を喫したことは4回しかない(うち2回はC級時代)。
 連敗はさらに続いた。2カ月後に行われた第4節の初戦でもラスとなった堀川はこれでとうとうスコアをマイナスに落とし、順位も一気に7位となってしまう。

 が、堀川はここから執念にも似た驚異的な粘りを見せて踏ん張った。次戦からこの4連敗を一気に帳消しにする5戦4勝の荒稼ぎを見せて3昇まで戻し、順位も2位に浮上させてこの時点で昇級ポジションを奪う。が、続く第5節の初戦もトップとした堀川だったがこの後3敗を喫し、この節最終戦こそトップを獲ったものの、2昇の第3位で5昇の平井、4昇の坂井準司を追っていよいよ最終節を迎えることとなった。
 その最終節初日、堀川は2勝0敗としてこの時点で平井を抜いて2位に浮上。が、その平井が2日目の3戦で2勝して再逆転する。最終戦、堀川は別卓ながら平井とのトップ→ラスを決めることができれば再々逆転でA級復帰だったが残念ながらそれは叶わず、結局次点の3位でB級残留となった。

 そして、この期をもって堀川は101の選手としての現役を引退したのである。

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 26年に渡る生涯通算成績は、920戦222勝191敗の31昇。この実働26年・通算920戦・生涯昇31は奇しくも揃って順位戦史上8番目に多い数値(現役・退役選手含む)。冒頭に記したように「記録にも記憶にも残る名選手」であったことがここでも裏打ちされていることが示されている。
 その「記録にも記憶にも残る名選手」に関しては、改めてご紹介したいものがいくつかある。その1つが、堀川の八翔位戦での戦績である。ここからは、堀川の八翔位戦に残した足跡をじっくりと振り返ってみようと思う。

 堀川が初めて八翔位戦に参戦したのは、順位戦入りした1993年(第10期)のことである。当時の八翔位戦は旧システムを採用しており、1次予選→2次予選→本戦→決定戦というしくみで対局が行われていた。
 新人・堀川は、初戦度は大会形式の1次予選であえなく敗退するも、それまでの2次予選と本戦を本戦前半と後半に分ける方式に改められた翌1994年(第11期)、堀川は予選を首位で通過し、本戦前半に駒を進める。翌年から3期続けて予選敗退とややトーンダウンした堀川だったが、1998年の第15期は本戦前半に、翌1999年の第16期は同後半まで勝ち進んだ。当時の順位戦ではいまだにC級で苦吟していた堀川だったが、このあたりから八翔位戦では好成績を収める男というイメージが備わってきたような記憶がある。

 そして翌2000年(第17期)から八翔位戦のシステムが大きく変わり、現在行われているトーナメント方式に変更される(2012年の第27期までは予選は3次まで)。そして記念すべきその初年度、堀川は自身初めて八翔位決定戦に進出したのだった。
 1次予選から登場した堀川はその後の2・3次予選を危なげなく通過、準決勝も延長9回戦の末にこれを制する。ここまでの19戦でラスは1回という、素晴らしい戦いぶりであった。
 その決定戦では初優勝を果たした田地裕の前に涙を飲んだ堀川だったが、その翌年の2001年(第18期)に堀川はまたも八翔位決定戦に進出するという離れ業を演ずる。この2年連続優出というのは、昨期まででこの堀川を含めて4例しかない偉業である(八翔位がその翌期の決定戦に被挑戦者として出場するケースを除く)。

 さてその第18期八翔位決定戦、開戦から終始押され気味の堀川だったが、特に延長戦に入ってからは優勝目前の有馬のゴールインを幾度となく阻むなどしながら、最後は15回戦で力尽きるも、持ち味である粘り強さがいかんなく発揮された点で高く評価されよう。この決定戦はその長い歴史の中でも5本の指に入るであろう名勝負だったが、大逆転で2回目の八翔位を手にした有馬の偉業もさることながら、堀川の戦いぶりがそれを創生したことは間違いないと、筆者は今でも確信している。
 なお、有馬は翌年連覇を達成したのだが、これに対する敬意の表われと、一方で敗者の戦いに感銘を受けた筆者は、連盟に我儘を聞いてもらった上で関係者の協力を得ながら、2年後にその全局牌譜集を刊行した。興味のある方はぜひとも当連盟の事務局に問い合わせてみていただきたい。

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 その後の堀川だが、順位戦では先述のとおり名翔位を獲得するなどA級選手としての地位を固めつつあった一方で、八翔位戦ではなかなか結果を残せずにいた。2006・2009・2010年(第23・26・27期)に準決勝には進出するものの、どうしてもあと1勝の壁を越えられずにここで敗退。参考までに堀川は、2010・2013年に行われた第6・9期翔龍決定戦の決勝でも惜敗を喫している。
 その後も堀川の2次予選での敗退は4年間続いたが、2015年の第32期八翔位戦において、久しぶりに決定戦の卓に戻ってきた。実に14年ぶりのことである。久しぶりといえば、この期は堀川が前年まで10年間守り続けてきたA級の座を失うも1年でこれを取り戻し、心機一転で順位戦に臨んできた年でもあった。

 その第32期八翔位決定戦は稀に見る激戦となった。対戦者は連覇中の小川八翔位に、挑戦者が堀川・大貝・関根秀介(東京支部)。結果的に小川が順位戦選手としては初の八翔位戦3連覇を飾ったこの年の決定戦だったが、史上最長の5日間延長21回戦でようやく決着したのもさることながら、そのスコアの推移が最後の最後まで拮抗していたのが特筆もの。とにかく四者がずっと僅差だったのである。
 まず小川が2昇でひとり決着権を持って延長に突入。その時点で堀川自身のスコアは△1だったが、小川が16回戦で14戦ぶりにラスをひく。それでもその小川だけが決着権を維持したまま延長戦は続くが、その間に17・18回戦を連勝した堀川がとうとう1昇として小川に並びかけた。あと1つトップを獲りさえすれば堀川悲願の八翔位戦初優勝である。
 そして◎大貝±0●関根△1を挟んで迎えた延長20回戦の最終局、上位から持ち点は大貝37,200/関根34,800/小川(オヤ)26,200/堀川21,800。トップめ大貝と堀川との点差は15,400、このままでは堀川はたとえハネマンをひいても大貝を逆転することはできない。ところが、ここで小川からリーチ棒が出た。果たしてその2巡後の13巡目、堀川にドラ雀頭でタンヤオ・イーペイコー確定のテンパイが入る。そして、まるで絶叫にも似た声で「リーチ!」を宣する堀川が打牌を横に向けたその直後――。

 堀川から打ち出されたのは関根逆転トップのロン牌だった。こうして「堀川、大逆転で八翔位獲得」の夢は断たれ、日を改めてその1週間後に行われた初戦の延長21回戦で小川がトップを獲り、3連覇が達成された。こうして史上最長の延長戦となった第32期八翔位決定戦は終焉し、堀川3度目の八翔位挑戦もその幕を静かに閉じたのだった。

 その後の堀川の八翔位戦における戦績だが、翌第33期(2015年)は自身初戦となる2次予選で敗退。続く第34期(2016年)は準決勝まで勝ち上がるが、ここまで。そして順位戦では4年ぶりにB級に降級し、結果的に引退した2017年の第35期八翔位戦では1次予選は通過したものの2次予選で敗退し、これが堀川にとって最後の八翔位戦になった。
 なお、その2次予選で堀川を下した五十嵐毅(日本プロ麻雀協会代表/東京支部)は、その年の11月に行われた決定戦を制して初優勝を飾っている。

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 26年間の堀川の順位戦における生涯通算成績が、920戦222勝191敗の31昇であることはすでに記した通りだが、ここらで堀川の【対戦相手別通算成績】について触れてみよう。
 数値は表に示したとおりで、5年前まで現役だったことに加えて、26年のうち半分に当たる13年間をA級で過ごしてきただけに、やはり現役のA級選手及びA級経験者との対戦が多いのが特徴だ。
 堀川が最も対戦機会の多かったのは対愛澤戦の164戦(12期)だが、実はこの全てがA級戦でのもの。結果は45勝29敗、一方の愛澤は34勝42敗で、合わせると堀川が24も勝ち越しており、これは堀川の圧勝である。何よりもラス率17.7%というのが見事だが、この24という数字は堀川が現役時代に順位戦において対戦してきた全67選手との対戦成績のうちで最多でもある。
 対平井戦(153戦/うちA級102戦)の44勝29敗で15、平井が42勝45敗で△3、合わせて堀川の18勝ち越しも立派な数字である。この両者の取り組みは堀川の通算トップ率28.8%であるのに対して平井も27.5%をマークしており、いかに激戦続きであったかを物語っている。

 その一方で堀川が最も苦手にしてきたのが、不肖・筆者であったことは正直意外だった。通算105戦(ただしA級では2期24戦しか当たってない)で13も堀川に勝ち越せていたとは俄かには信じがたい現象だ。が、実はこれには思い当たるフシがある。
 確かに筆者は堀川とは数多く打ち合ってきた一方で、何度も立会人や取材者として戦っているところを外から見てきた経験が多い。ここまで触れてきた名翔位獲得の瞬間やA級戦や八翔位決定戦の数々の場面も、実際に筆者はこの眼で目撃してきた。そういった印象に残る数々のシーンに、筆者は対戦相手としてよりもむしろ観戦者の立場で接してきたからではないだろうか。
 また堀川は、表からは小川には一見負け越しているようにも見えるが、実はこれはいわゆる「数字のマジック」で、ご覧の通り堀川は162戦で39勝30敗と9も勝ちが先行している。相手の小川がこれを上回る53勝34敗という途轍もない数字を叩き出しているため、堀川が小川に負かされているように見えるだけある。
 さらに言えば、この両者の対戦時の2人合わせたラス率は40%にも満たない。つまり脇の2名のどちらかが6割以上の確率でラスをひかされているのである。これがどれだけのことであるかは、101を打った経験のある者であればお分かりのことではないだろうか。
 他に目立つところと言えば、対大貝戦の凄まじいほどの勝ち越しか。堀川は大貝とは順位戦では僅か2年30戦の対戦に終わっているが、それでも堀川14勝3敗・大貝3勝10敗とは、これはもう「カモ」扱いしてもよさそうな数字。何せ2回に1回トップを獲っているわけである。
 参考までに堀川はこの小川以外の、合わせて10回の名翔位獲得といういわば「平成の101御三家」と呼ぶべき今期第44期順位戦(2023年)のA級上位3名(成岡・愛澤・田中)に対して、合計で342戦92勝72敗で20の勝ち越し。これまた堀川が遺した立派な戦績の一つと言えるだろう。

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 今回ここまで、文中何度か「記録にも記憶にも残る名選手」という表現を使わせていただいた。締め括りとして、堀川が遺してきた数々の記録についていくつか列挙してみよう。

@A級初昇級の期に名翔位を獲得
 第25期(2004年)A級戦で達成。史上2人目。
A順位戦のA級戦で7昇しながら名翔位獲得ならず
 第37期(2016年)。「準名翔位」としては史上2番目の昇。
BA級戦において△2で降級を唯一2回経験
 第34・37期(2013・2016年)。
C順位戦で史上最多の次点7回
 ・第32・37期(2011・2016年)A級で2位。
 ・第22・23・39期(2002・2003・2018年)B級1組(第39期はB級)で3位。
 ・第21期(2001年)B級2組で3位。
 ・第18期(1998年)C級で3位。
D八翔位決定戦に3回進出(史上2位タイ)
 第17・18・32期(2000・2001・2015年)で達成。
E八翔位戦での予選・準決勝で7回連続勝ち上がり(史上最多タイ)
 第17・18期(2000・2001年)で達成。
F翔龍戦最多出場(史上2位)
 2005〜2013年の全9期開催のうち8期出場(うち2回決定戦出場)。
G史上第3位の低ラス率
 通算20.76%は、これまで現役・退役含め300戦以上の対局経験のある順位戦選手58名中の第3位。
 なお、最低ラス率は青野滋(シニアディレクター)の19.54%で、これは唯一の20%未満である。
 参考までに堀川は、2005年の第26期(当時A級に在籍)の通算430戦消化時点で19.30%にまでこれ
 を落としており、これが堀川の瞬間最低ラス率。

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 最後に、筆者が堀川について今までで最も印象に残っているシーンについてご紹介して、この長い駄文を締め括りたいと思う。
 何せ選手時代の堀川とは、四半世紀を超えて長く101競技連盟にともに所属した間柄である。これまでに触れた数々の場面を含め、堀川に関して思い起こせる場景などそれこそ山のようにあるが、その中でも敢えて一つだけ選ぶのであれば、今から5年前、つまり結果的に堀川がその期をもって引退した2018年の第39期順位戦B級第3節終了直後の一場面を挙げたいと思う。
 文中でも紹介したように、この期の堀川は1年でのA級復帰を目指して開幕直後から奮戦を続けていた。が、迎えた残暑厳しい大阪対局室での第3節最後の3戦で3連敗を喫し、同じく昇級を目指していた平井・坂井に水を開けられてしまう。
 その最終戦、対戦相手は坂井・板川・筆者の3名。そして、対局が終わって筆者がその場をあとにしようとしたその時、筆者はあえなくラスに終わった堀川と卓を挟んで目が合い、堀川が無言のままこちらに視線を投げかけてきた。
 その時の堀川の表情を、筆者は今でも忘れることができない。
 悲しいとか、悔しいとか、がっかりしただとか、そのいずれとも何か違う、どれほどの言葉を尽くしても、自分の表現力や語彙力の貧弱さがもどかしいほどの、それまで見たことのないような何とも言えない、そんな佇まいだった。

 筆者が、堀川が引退すると知ったのは、その半年後のことである。

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 堀川が引退した3年後、筆者が幸運にも八翔位戦で優勝できてから数ヵ月経った就位式の夜、コロナ禍の不自由な日々が続いていたにも関わらず、彼は祝福に駆けつけてくれた。
 待ち合わせの場所に現れた堀川の顔には、5年前の夏のあの時とは打って変わって、病み抜けたような爽やかな表情が笑顔とともに浮かんでいたことも忘れられない。
 今でも堀川とは時折一緒に呑みに行き、互いに好きなプロ野球の話題や他愛もない世間話の他に、マージャンに関する相談などもさせてもらっている。9歳ほど年下の後輩だが、生涯決して忘れることのない、尊敬できる打ち手だった。
 そして、そんな堀川と今でもこうして交流を持てることに心からの謝意を表しながら、この長い拙文を終えようと思う。


2023年春 「記録小僧」こと山内啓介(日本麻雀101競技連盟)